映画 流浪の月
「流浪の月」
原作を初めて読んだ時、これ以上に愛することのできる作品はあるのだろうか、そう漠然と思ったことを思い出した。
公開からかなり経ってしまい、終映間近になった今日 ようやく流浪の月を観た。
賛否両論あるこの話題、賛否というより否定しか生まれなさそうなこの話題。小説だからこそ許される話題でもあるけれど、それを実写化。しかも、有名すぎる俳優陣。
の割には、注目されていないのはやはりこのテーマにあるんだろうか。
そう思わざるを得なかった。
この映画、音がとても綺麗に描かれていたのが印象的だった。
李監督の作品は音がないことが多かったんだけれど、流浪の月は「音」をかなり意識して作ったんじゃないかと思わされるほど、ファーストカットから「音」が綺麗に心に届いた。
「ブランコの錆びた音」から始まるこの物語、あの音を聞くと「孤独」を感じるのはなんでだろう。あの音は静かな公園にしか鳴り響かないものだと、いつから認識していたんだろう。
途中で鳴り響く「楽しい音」もふたりの世界でしか鳴っていないし、二人しか知らない音。ずっと鳴り響いてほしかったあの音が、二人から消えた瞬間。
更紗の目から光が消えた。あの心情を目だけで表現した広瀬すず。やはり上手だと思った。あの「目の演技」をするまで、どれほどまで自分を追い込んだのか、考えるだけで胸が締め付けられた。
文と更紗だけにしかわからない世界で、わからない感情で動き続けるこの世界に、土足で上がってくる人たち。「心配」という名の軽蔑。
「なにもない」ことを説明しても「それは違う」と言われてしまう悲しさと、絶望。
なにをどう頑張って伝えることができたら、あんな風に「そこにある感情」が受け入れられたんだろう。
文と更紗が自由になるには、二人だけの世界を「二人にしか知らない世界」で作り上げるしかなかった。幸せが誰にも邪魔されないように、そう願うしか他ない。
体育座りをした文に「あの頃のお父さん」が重なったからなんだとしてもそれでも更紗が文に求めるその感情も、文が抱く「不完全なもの」に対して安らぎを求めてしまうことも、全部“恋”じゃないのにそうなってしまうことがとても苦しいなあ。と思う。